徳川凋落の兆候(公方様の悪口)
「ああいうことをしたら滅亡します」と町人が言っている。
それは嘉永6年6月11日に神田松ヶ枝町の職人形万の主人(当時22歳)が受けた拷問のことである。
NHK篤姫では徳川慶喜の代に大きな凋落が始まったように描かれている。
侍の世界はおそらくそういうことであっただろう。
しかし、町人の世界では家慶、家定(篤姫の夫、但し篤姫は正室ではなく継室)の時代に既に徳川凋落が始まっていたという。
嘉永6年(1853年)は日本の歴史が大きく転換した年である。
6月3日にアメリカの東インド艦隊率いるペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀沖に来航している。
その8日後にこの職人は拷問にあっている。
幕末百話から抜粋する。
『略。19日目に牢から引き出されて、御取調べになって、驚いたのは屁みたいな事が原因(もと)なんでした。
徳川の末だったんで、こんな事を気に懸けゃアがったんです。
お話しするのも馬鹿馬鹿しいくらいでさア。
豊島町にどんどん湯というのがありましてソノ前の晩、仕事を仕舞って一風呂あびにいったと思召せ。
同町内の芋屋の主人で、長谷川というのが、こうなんです。
こう言いやがったんで、いろんな話の末に、「今の公方様じゃア納まりませんや」というから、「そうですなア」と相槌を打ったんです。
コレが探偵(おかっぴき)の耳へ入って入牢なんで、ところが長谷川は私が話し掛けたと申し上げていたんで、謀反人のように思われたんです。』
病人の母と孕(みもち)の妻がすがって泣くのを引き立てられていったという。
数日たって拷問所に引き立てられていったとき、母と妻がシャクリあげて泣いていたという。
夫のやつれと、ビードロのように膨れ上がった脚を見たのである。
妻はその姿の変貌振りに驚いて卒倒したそうだ。
足に重い石を抱かせるなど、今では想像もできない残酷な拷問が日常的に行われていた時代である。
将軍の悪口をいった張本人であると疑われた形万への拷問は厳しかったのだろう。
拷問所に家族を呼びつける神経も尋常ではない。
同じく拷問にかけられた長谷川が終いには白状したので、形万はめでたく無罪に、長谷川は死刑になったという。
篤姫が家定と蝶や花を追いかけて遊んでいた頃、江戸市中の町民たちは徳川の世も末だと感じていた。
身分の違いにより歴史の体感速度も違うようだ。
サブプライムローンで家を追い出された貧しい米国民は、今日食べるものに事欠いているだろうが、リーマンブラザーズの幹部たちは倒産したといっても数十億円の財産でアカプルコの別荘にいき、クルージングを楽しんでいることだろう。
歴史とは、2本の速度の異なる線路で動いているのである。
Posted by shono : 2008年11月16日
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