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からくり人形は私たちの遺伝子記録

日本人に今でも伝わるからくり人形のこころ            2006.5.20
~東芝もトヨタも、からくり師が創設した。

 
5月12日に稲城市で「ものづくりの心」からくり人形から学ぶ、という講演を聞きました。
高精密歯車製作や切削・研磨技術の㈱大野精密社長の大野勇太郎氏は、平成17年にからくり人形技術に対して、東京都優秀技能者(東京マイスター)知事賞受賞を受賞しています。

大野精密の茶運び人形
大野氏はあるカメラメーカで27年間働いていたそうです。
ビデオカメラの普及速度が速く、8mmカメラ製作技術ではついていけない状態になっていきました。
当時のカメラの絞り機構(露出)はメカ制御系でした、電子制御系に移行して行ったため、ついていけなくなりそのカメラメーカは廃業となりました。

ある日、神田の古本屋で立ち読みをしていて「日本の機械史を始めた人たち」という本の中に江戸からくり人形の設計図面があったので、自分もやってみようと思いたったそうです。そういえば8mmカメラとからくり人形とは類似のメカニズムです。

大野精密の茶運び人形はアクリル製で、定価395,00円で注文を受けるそうです。
中国、カナダへも出荷しているそうです。

からくりと西洋時計の融合
日本には古くから木偶師(でくし)、傀儡師(かいらいし))と呼ばれるあやつり人形師がおり、大道芸や神事として人形を使う技と技術があったそうです。
平安時代末期の「今昔物語」に「からくり」の記述があるそうです。

そういう日本に古くからあった「からくり」に、16世紀に持ち込まれた西洋の時計技術から生まれた和時計の技術が組み込まれ、「からくり人形(自動人形)」として、江戸時代に完成の域に達したようです。
ザビエルは、1551年(天文20年)に山口の大内義隆に布教を願い出た時に、西洋機械時計を献上しています。大内義隆はプレゼントに喜び、布教を許したそうです。

江戸時代のからくり人形はどこまで普及していたのか?
小林一茶(1804年~1830年)の句に、「人形に 茶碗運ばせ 角すずめ」というのがあります。軒下の縁台で茶碗を運ばせる人形を動かして騒いでいた町民を詠んだものです。
この当時、東京の人形町に「人形職人」が多くいたそうです。
この句から、当時のからくり人形が高貴な人々だけのものではなく、庶民の間にも浸透していたことがわかると言われています。


駆動機構ゼンマイの製造方法
人形を駆動するゼンマイはどうしたかというと、鯨の髭を加工して巻いたそうです。
今風に言えば、「有機ゼンマイ」です。
セミ鯨は上あごに100本くらい長さ2.5~3mのヒゲを持ち、それをフィルターにして小魚を口に吸い、舌で巻いて口の中へ飲み込むそうです。
ヒゲといっても一本が2~3mと長く大きいのです。

この反ったヒゲを煮沸して平坦にし、カンナで削って所望の厚さ0.45mm×幅16mm×長さ1600mmのゼンマイ用の板を作ります。
これを湯で戻してカーリング状態にし、水洗いで冷やすことで反発力を持たせます。
これを巻けば、人形はおよそ距離2mを2往復することができます。
但し、鯨のヒゲゼンマイは、動く速度は現在の鋼ゼンマイよりもやや遅く、一回作動させると、反発力が回復するのに時間がかかるので、連続繰り返しには向いていない。休憩させることが必要となる。
生き物という感じがでていますね。
昔は、火縄銃の撃鉄の戻りバネなどの部品としても利用されていました。


からくりノウハウの伝承は本
からくり人形の製作ノウハウが「機巧図彙」(きこうずい1796年)という本になって現存しています。著者は細川半蔵で土佐人です。からくり半蔵と言われていました。
技術の門外不出の当時に、秘伝の技術の公開は革命的であり、そのために大野氏もわれわれも日本人の末裔は昔の技術を学ぶことができるのです。
からくり半蔵の持つ開放的な土佐人気質のおかげです。

「機巧図彙」をからくり半蔵が書いて3年後に、筑後の久留米でべっこう細工師の長男として田中久重が生まれました。「東芝」の前身「芝浦製 作所」の創始者です。この人は後にからくり儀右衛門と言われました。
細川、田中のほかに、有名なからくり師として、飯塚伊賀七、平賀源内、大野弁吉、豊田佐吉等がいます。豊田佐吉はあの世界の「トヨタ自動車」の創始者です。

金沢の大野弁吉は細川家の流れを汲んでいる人です。
弁吉は長崎でシーボルトについて科学を学んでいましたが、師であるシーボルトが帰国の際に日本地図を持ち出そうとして捕えられた“シーボルト事件”で国外追放された翌1830年に、難を逃れて、妻さとの実家の加賀国大野村(現金沢市)へ移り住んだそうです。
「機巧図彙」の精神は、土佐の細川から長崎のシーボルト科学の吸収を経て、金沢の大野弁吉と承継されていったのです。

「大野村の大野弁吉」というのは、古くからわが国にある地名を姓に用いる習慣ではないかと思います。足利庄の尊氏が足利姓を名乗るなど。
大野勇太郎氏と加賀国大野村とに関係があるのではないか、と思いました。
参加者からの「他に江戸からくり人形を作っている人がいますか?」という質問に対して、「数名いますが、金沢の大野弁吉という人が細川家の流れを汲んでいる人で、レベルが高いと思う。大野弁吉は日本の精密機械発展のルーツである。」と答えました。
あたかも205年間前に生まれた弁吉が今でも生きているように聞こえました。
弁吉の末裔が金沢で今でもからくり人形を作っていることのようです。
果たして東京の大野勇太郎さんは金沢の弁吉の末裔ではなかったのか、と数日経ってから思いました。
(パートナーコンサル 生野逸夫)

Posted by shono : 2006年05月20日

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